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ヒットラーの特許と知識の死蔵 (Vol.1-3)
二千年前のアレクサンドリアの発明者、へロンは、蒸気機関の原型である気体装置を貴族の応接間の置物として作った。この話は、ウッドクロフト編の「古代人の発明 へロンの気体装置」(創元社)という古書に書かれている。遊びの道具としての「カラクリ」は、産業革命を起こさずに消えた。われわれは、三角形の三辺の長さがわかっているとき、へロンの公式を思い出して、電卓で面積を計算することがある。このように、過去の技術遺産を継承し、未来の技術基盤を築くことを期待したいのであるが、一般的には、その多くがどこかで死蔵されてしまう。へロンが発明した自動販売機の場合にも、宗教団体の私物になったため秘密にされ、歴史の表舞台から消えた。
なぜ、知的財産は死蔵されるのか。現代的な特徴は、戦略性という習慣にある。ギュンター・ライマンの「Patents for Hitler」(1942、邦訳は、田中・松縄・小峰の「ヒットラーの特許戦略」、ダイヤモンド社、1983)には、ナチス・ドイツの特許戦略がアメリカの産業技術の発展を長期間に及び阻害した、という筋書が書かれている。しばらく間、探していた本であったが、最近、富田徹男氏からのメールで読むことができた。スタンダード石油とナチスの統制下にあったIGファルベン社との技術提携契約は、経済戦争という名のグローバルな市場分割を加速させた。その中で、例えば、イギリス空軍向け航空燃料の「ロイヤルティ支払い」が第二次大戦開戦後も、戦後保証として積み立てられていたのである。個々の経営者たちは特許の存在を単なる対価請求権にすぎないという認識にとどまっていたのかもしれない。それに対して、ヒットラーの構想は巨大であった。
技術革新をもって、産業の発展に資するのが本来の特許の姿である。むろん、発明者には、新技術や技術的工夫を生産に利用する義務は課されてはいない。極論すれば、その産業プロセスを支配する実施範囲は、発明者の自由裁量なのである。その自由裁量を逆手に取れば、ときには、他の発明者をもっても克服できない発展の阻害要因を作り出すことも可能である。いわゆる、防衛特許戦略である。産業全体を包括する基本特許の場合に限らず、IG社が特許マップ上の拠点を独占し、かつ、その源泉である研究・開発の部署、実験工場を契約で束縛する。そして、戦略物質の生産を妨害する。さらに、特許の持つ潜在的市場に関わる企業群との間に、様々な秘密協定、さらには、クロスライセンス契約が結ばれる。合成ゴムの開発においては、ジャスコ社という、共同研究開発ベンチャー企業が作られた。その実験工場及び研究所施設の経費は米国企業が支出する。研究開発を担当する技術者、研究者はナチスから派遣される。その職務発明の成果は合理的な対価をもって、雇用者であるIG社と米国企業に譲渡される。米国企業の支払いは、IG社に支払ったロイヤルティに加えて、25%の対価を上乗せしたものになる。そして、特許明細書の中には書かれなかったノウハウは、技術研究者集団がドイツに持ち帰るのである。さらに、軽金属市場では、アルミの独占企業アルコアが、競合品のマグネシウムの開発に関し、IG社と特許プール専門会社を設立する。そして、マグネシウム関連の特許を作為的に死蔵させ、軽金属市場をコントロールするのである。
菊池 純一(きくち じゅんいち)
知財評論家。長年知財価値の勘定体系はどうあるべきかを研究してきた某大学の教授。1951年生。
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