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創造的破壊と禁門 (Vol.1-2)
新しい技術の登場は、前向きの一面だけではなく、ネガティヴな側面、あるいは、犠牲を伴う。かのシュムペーターという学者は、鉄道によって消え去った駅馬車業を話題に、技術革新がもたらす躍動的な側面を、創造的破壊としてとらえた。つまり、新しい技術と現在分離されている種々の諸力が結合されることによって、前向きの波が連続的につくりだされる。しかし、その波に飲まれて消え去る結合があるはずだ。鉄道の場合、幸運にも駅馬車の廃業によって発生した失業者を吸収しても余りあるほどの労働をつくりだした。しかしながら、これも持続的なものではない。次には鉄道に替わる新しい技術が創造的破壊を繰り返すことになる、という構図である。現在に住むわれわれの多くはこの種の構図をよく目にする。そして、変化と変化の波がいくえにも重なることも知っている。われわれの感性は麻痺しやすいものである。ときには、ポジティヴな面とネガティヴな面を見失しなって、変化の繰り返し、それ自体が豊かさの基準のように勘違いすることがある。これはぜひとも避けたいものである。
では、新しく登場した技術の価値をどのように評価するのか。シュムペーターは次のように考えている。それを創造するにいたった種々の諸経費とは無関係に、昔の巨匠の絵と同じような方法で評価されてしかるべきだろう。そして、その価値の多くは、発明者ではなく、種々の新しい結合を可能にした企業そのものに帰属するはずである。たとえば、パン屋にある完成されたパンは配達人の労働と結合して始めて、高い価値の順位をつけられるからである、という。これは、困ったことである。前段の話をつなげて、現代風に極言すれば、職務発明の評価であろうと、クロスライセンスの査定であろうと、さらには、エイズ治療薬の特許緩和の話であろうと、いずれにせよ、技術の価値を見定めるときには、一企業の内部や業界内の範囲にとどまらず、社会的なプラスマイナスの成果を総合的に判断せよ、と言っているらしいのである。
かつて、旧約聖書の中に出てくるエデンの園の真中には、ヘビにそそのかされた欲深い「イヴ」が食べてしまった知識の実がなる「知の木」があった。これをリンゴの木だという、無粋な方々もいるが、その点は忘れて欲しい。そして、もう一本、永遠の命が得られる「命の木」があった。知識の実を盗み食いしてしまったアダムと「イヴ」は、エデンの園を追われ放浪の身となり、アダムは「命あるものの母」という意味の「イヴ」という名前を後につけることになる。この話がシルクロードを渡って中国に流れる。これから先の話は少しこじつけである。「木と木を示す」と書くと、「禁止の禁」という文字になり、高貴な場所の入り口で、普通の人々が近づけない「禁門」という意味になる。その奥には、いまだ手つかずの、「知の木」と「命の木」があるらしい。西欧流の「エデンの園」の話に出てくる欲深い「イヴ」とは、私利私欲を求め老化する普通の人間のことである。その人間が獲得した知識の諸力を結合させ、私利私欲の足かせをはずすことが究極なのだ、という思想がシュムペーターの原点にあるならば、技術の適正な価値もおのずと、私的所得(Private
Income)の範囲を越えて、社会的成果(Social Outcome)の動向を見定めてから判断せざるを得ない。
菊池 純一(きくち じゅんいち)
知財評論家。長年知財価値の勘定体系はどうあるべきかを研究してきた某大学の教授。1951年生。
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