アブダクションの世界と知識社会 (Vol.1-6)

 インターネットゲームの人類誘拐計画のことではない。論理的思考の世界の話である。例えば、世界地図の中で、アフリカの西海岸と南アメリカの東海岸を見ていて、「くっ付くぞ」と思ったことがあるだろう。それだけではない。世界地図の中には、「くっ付くぞ」と感じる場所は多い。これが、20世紀初頭のヴェゲナーが唱えた大陸移動説の始まりである。意外なことを発見したとする。仮説を立てて推論していく、今までの知識の中から一番見合いそうな道筋を探して説明する。これが哲学者C.パースから始まり、UFO研究家の方々も入るかも知れないが、人工知能の分野の研究者が追いかけているアブダクションの世界である。手ごろで、真面目な本としては、村上陽一郎編の「現代科学論の名著」(中公新書)を読んでみるとよい。

 このアブダクションの世界の中には、限界が発生する。一つは、推論していく中で、道筋を見失って、結局のところ、間違った結論に到達する場合である。もう一つは、始発の時点において意外なことを発見できない、あるいは問題自体を切り出せない故に、思考自体が停止してしまうという限界である。

 その昔、エクソダスを成しとげた老人は、若いとき、「燃えているのに燃えつきない柴」に出会った。そして、それまで来た道を折り返して歴史に残る偉大な業績を残した。燃えつきない柴に出会ったのは偶然ではない。彼が、異国の地に留まる寄留者の眼から発せられる好奇心を持っていたからからではない。不思議な光景を見届けよう、「そこへ近づいて見てみよう」という探究心を彼は持っていたからである。そして、道筋を見失わないように、「限界を打ち破る杖(つえ)」を得る。後になって、彼は、選ばれし者であったことを知るのである。一般に、われわれは、そのような著名な老人にはなれないが、擬似的な思考パターンを訓練することはできる。

 例えば、「黒、黒、黒」と丸が三つ並んでいるから、次も「黒」と推測することは、囲碁ゲームのルールが作動している場面では間違いであろう。特別なルールも、特別な事情も無視して、意外な視角から、「たぶん」とやってもよければ、次の手の内としては、驚きの「赤の三角」もあり得るわけだ。そして、その意外なことが発見されれば、これが囲碁ルールの世界ではないことが明らかになり、その次の予測がさらに難しくなる。仮説に基づいたいくつかの選択肢の中から「たぶん」に「たぶん」が重なった道筋を作り出し、蓄積されている知識をたよりに、「決断」をしなければならないだろう。今の知識社会においては、固有の共通ルールが見えない。たぶん、個々の者たちはこのようなパターンを繰り返して、互いに、モザイクのように「連」を成しているのであろう。アブダクションの手法はロボットの頭の中に組み込むものではなく、むしろ、われわれのように、不安定なルールに基づいて生活している者たちに必要なインターフェイスなのである。

 先ほどの黒丸が三つ並ぶ前の原始的状況のとき、どのような「たぶん」があったのだろうか。最初の「黒丸」の登場に驚いた者がいたはずである。それとも、すべての者の予測が完全に的中するような状況下にあったのだろうか。いや、すくなくとも、多くの者は知識社会における次の一手に対しても驚いたはずである。そして、何人かは単なる好奇心を越えて、生来の探究心を持ちつづけていたはずである。先の老人はアロンという名の協力者を得て、その偉業を実現させた。現代の知識社会においては、複数の者たちが協力し合って、「たぶん」の中身と「驚き」のしるしを示す必要がある。



菊池 純一(きくち じゅんいち)
 知財評論家。長年知財価値の勘定体系はどうあるべきかを研究してきた某大学の教授。1951年生。